廊下という、目的のない空間
要点
- 廊下は、それ自体には用途のない、部屋と部屋をつなぐためだけの空間である。
- 近代以前の日本建築では、縁側や廊下が内と外、部屋と部屋の「あいだ」を担っていた。
- 谷崎潤一郎は、薄暗い廊下や軒下の陰翳に独自の美を見いだした。
- ただし、機能だけで測れば、廊下は削られるべき無駄として扱われやすい。
家の図面を眺めると、廊下にはたいてい名前がない。リビング、寝室、浴室——部屋には用途を示す名がつくのに、それらをつなぐ細長い空間は、ただ「廊下」とだけ呼ばれる。用途を持たないこと。それが廊下という空間の、もっとも本質的な性格だ。
あいだのための場所
廊下は移動のためにある。だが、移動だけのためにあるのなら、それは効率の観点からは可能な限り短く、狭くされるべきものになる。実際、近代の住宅設計では、廊下を減らして部屋どうしを直接つなぐ間取りが好まれてきた。廊下は床面積を消費するだけで、そこに住むわけではないからだ。
一方で、廊下を単なる無駄と切り捨てない見方もある。部屋から部屋へ移るとき、人は一度、用途の定まらない空間を通る。仕事の部屋から食事の部屋へ歩く数歩のあいだに、気持ちは少しだけ切り替わる。廊下は、行為と行為の「あいだ」に置かれた緩衝地帯でもある。
縁側という発明
日本の伝統的な住まいには、縁側という独特の空間があった。縁側は部屋でもなければ庭でもない。雨戸を開ければ外に近く、閉じれば内に属する。内と外のどちらにも決めきらない、まさに「間」の空間である。建築家の磯崎新は1978年の展覧会「間(ま)」で、日本の空間と時間の感覚を、こうした余白や隔たりとして国際的に紹介した。間とは、何もないことではなく、何かと何かのあいだに生まれる関係そのものだという捉え方だ。
縁側に腰かけて庭を眺める時間には、明確な目的がない。だが、その目的のなさこそが、移動と滞在のあいだ、労働と休息のあいだに、ゆるやかな余地を作っていた。
陰翳のなかの廊下
谷崎潤一郎は『陰翳礼讃』で、明るく均一に照らされた近代空間を退け、薄暗がりのなかに沈む日本家屋の美を擁護した。長く薄暗い廊下、奥へ向かうほど光の減っていく座敷。谷崎にとって、廊下の暗さは欠点ではなく、空間に奥行きと静けさを与える要素だった。光をすべて行き渡らせることが正しいとは限らない——この感覚は、効率と明るさを是とする現代の設計とは、静かに対立する。
無用の用
用途のなさを基準にすれば、廊下は真っ先に削られる。病院の長い廊下、オフィスの通路、マンションの共用廊下——いずれも、面積あたりの生産性で測れば旗色が悪い。だが、すべての空間が用途で埋め尽くされた建物を想像してみると、そこには移動のあいだの呼吸がない。部屋から部屋へ、いきなり切り替わり続ける生活は、おそらく落ち着かない。
廊下は、何のためにあるのかと問われると答えに詰まる空間だ。だが、答えに詰まること自体が、この空間の役割を示しているのかもしれない。庭を眺める時間と同じく、廊下のもつ余白は、生産性の言葉では測りにくい。目的を持たない空間をどれだけ許容できるかは、その住まいが、人にどれだけの間を残そうとしているかの指標になる。
参照した資料
- 谷崎潤一郎『陰翳礼讃』
- 磯崎新 監修「間(ま)— 日本の時空間」展(1978年)に関する資料