待つことを、もう一度考える
要点
- 哲学者・鷲田清一は、待つことを単なる無駄な時間ではなく、人間の根本的な構えとして論じた。
- 現代は、待つことを「最適化して消すべきもの」として扱う傾向が強い。
- 待つことには、自分の力では結果を左右できないという受動性が含まれる。
- もっとも、すべての待ちが豊かなわけではなく、強いられた待ちは苦痛にもなる。
「待つ」という言葉には、どこか後ろめたい響きがある。何かを待っているとき、私たちはしばしば「ただ待っているだけ」と感じ、その時間を無駄にしていると思う。だが、待つことは本当に無駄なのだろうか。哲学者の鷲田清一は、待つという経験のなかに、現代が手放しつつある人間のかたちを見ようとした。
消されていく待ち時間
かつて、待つことは生活の至るところにあった。手紙の返事を待ち、季節を待ち、人を待つ。情報も移動も遅かった時代、待つことは避けられない条件だった。だが、技術は待ち時間を次々と削り取ってきた。即時のメッセージ、当日の配送、数秒で表示される検索結果。待たなくてよいことは、ほとんど無条件に「善いこと」とされてきた。
その結果、わずかな待ちにも私たちは耐えにくくなった。信号、行列、ページの読み込み——数十秒の待ちが、強い苛立ちを生む。待つ能力そのものが、静かにやせ細っているのかもしれない。
受動性という構え
鷲田清一は『「待つ」ということ』で、待つことの本質を、自分の意志では結果を引き寄せられない受動性に見た。待つとき、人は相手や状況に対して無力である。返事が来るかどうか、相手が現れるかどうかは、こちらの努力では決められない。にもかかわらず、私たちはそれを待つ。この「どうにもできないものに身を開く」構えこそ、待つことの核心だと鷲田は論じる。
能動的に何かを成し遂げることばかりが価値とされる社会では、この受動性は弱さに見える。しかし、人と人の関係、看護や子育て、創造の過程には、コントロールできないものを待つ時間が不可欠に含まれている。すべてを能動的に支配しようとすれば、かえってこぼれ落ちるものがある。
豊かな待ちと、苦しい待ち
ただし、待つことを一様に美化するのは危うい。病院の待合で診断を待つ時間、職を失って連絡を待つ時間は、けっして穏やかではない。待ちが豊かになるか苦しくなるかは、その人が状況をどれだけ見通せるか、いつ終わるのかを知らされているかに大きく左右される。あとどれくらい待つのか分からない待ちは、同じ長さでも何倍も重く感じられる。空港の椅子が示すように、待たせる側の配慮の有無が、待ちの質を決める。
待つ力を保つ
待つことを消し去る技術は、たしかに多くの苦痛を取り除いてきた。だが、待つ力までも一緒に手放してしまえば、私たちは結果をすぐに手にできないあらゆる経験——関係を育てること、何かが熟すのを見守ること——に耐えられなくなる。一方で、すべての待ちが尊いわけではない。問われているのは、消すべき待ちと、残すべき待ちを見分ける感覚だろう。
待つことは、何もしていない時間ではない。それは、自分の外にあるものに向かって、静かに身を開いている時間である。通知を切るような小さな実践も、結局は、すぐに反応しないでいられる力を取り戻す試みなのかもしれない。
参照した資料
- 鷲田清一『「待つ」ということ』(角川選書)
- エマニュエル・レヴィナスの受動性をめぐる議論(鷲田の論考が参照する系譜として)