「あとで読む」は、なぜ読まれないのか
要点
- 「あとで読む」に保存された記事の多くは、実際にはあとで読まれない。
- 保存という行為は、読むことの代わりに、安心だけを与えてしまうことがある。
- 「あとで」という時間は、具体的な予定がなければ永遠に訪れない。
- もっとも、保存は取捨選択の手段でもあり、使い方しだいで意味が変わる。
気になる記事を見つけて「あとで読む」に保存する。リストには、いつのまにか数十本、ときに数百本の記事が積み上がっている。そのうち、実際に読み返されるのはごく一部だ。残りは、保存されたまま静かに眠り続ける。なぜ私たちは、読まないと分かっているものを、保存し続けるのだろうか。編集部内の問いを、対話のかたちでたどってみる。
保存は、読書の代わりになる
——保存しておけば、いつか読めるはずではないのか。
その「いつか」が問題だ。記事を保存する瞬間、私たちは小さな満足を得る。気になる情報を取り逃さなかった、という安心だ。だが、この安心は、しばしば読むことそのものの代わりになってしまう。保存した時点で「処理した」気分になり、実際に読む動機はかえって弱まる。保存とは、読書の予約であると同時に、読書の先送りでもある。
「あとで」は来ない
——では、なぜ「あとで」は訪れないのか。
「あとで」が具体的な時間を指していないからだ。明日の朝でも、今週末でもなく、ただ漠然とした「いつか」。予定のない時間は、カレンダーのどこにも場所を持たない。だから永遠にやって来ない。待つことを論じた回で見たように、終わりの見えない待ちは重くなる。同じように、いつ読むとも決めていない記事は、読まれないまま負債のように溜まっていく。
——耳が痛い話だ。
裏を返せば、解決は単純でもある。「あとで」を具体的な時間に変えればいい。通勤の三十分、土曜の朝のコーヒーの時間。読む時間をあらかじめ決めておけば、保存リストは予約として機能しはじめる。問題は保存することではなく、読む時間を設計しないことのほうにある。
溜め込みという衝動
——それでも、つい保存してしまう。
それは、情報を逃すことへの不安が背景にある。読みきれないほどの情報が流れ続けるなかで、私たちは「見落としたくない」という焦りに駆られる。保存は、その焦りを一時的に鎮める行為だ。だが、すべてを保存しようとすればするほど、リストは現実に読める量から離れていく。通知を全部オンにしたまま放置するのと、構造はよく似ている。選別の不在が、際限のない蓄積を生む。
読むか、手放すか
「あとで読む」リストとどう付き合うかは、結局、読むか手放すかを決められるかにかかっている。読む時間を具体的に決めて読むか、読まないと認めて消すか。そのどちらでもなく、保存したまま放置するのが、いちばん落ち着かない状態だ。もっとも、保存そのものが無意味なわけではない。あとで参照するための資料として、明確な目的をもって保存するなら、それは立派な道具になる。
問題は、保存という行為が、読むことの代わりにすり替わるときだ。積み上がった「あとで」のリストは、私たちがどれだけ多くの情報を、立ち止まって読むことなく通り過ぎているかの記録でもある。読まれない保存を減らすことは、情報のなかに、立ち止まって一つを読み切る間を取り戻すことに等しい。
参照した資料
- カル・ニューポート『デジタル・ミニマリスト』(情報の取捨選択をめぐる議論として)
- 情報過多と「見落としへの不安(FOMO)」に関する一般的な知見